不平等を嫌うサル ― 公平感覚は学習か本能か
不平等を嫌うサル ― 公平感覚は学習か本能か ― 高等科「文化と信じる力」より ―

2匹のサルが、透明なガラスの仕切りをはさんで並んで座っています。
研究者が手元の小さな石を差し出すと、サルたちは慣れた手つきでそれを受け取り、また差し出します。
小さな実験室の空気は静かで、わずかに金属音と衣擦れの音だけが響いていました。
最初は穏やかで、どこか規則正しいやりとりに見えました。
しかし、次の瞬間――その均衡は崩れます。
ひとつの違いが、世界を変えたのです。
右側のサルにはキュウリ、左側のサルにはブドウ。
最初のうちは、どちらも満足そうに食べていました。
けれど右のサルがふと隣を見た瞬間、表情が一変します。
目を見開き、手を止め、キュウリを放り投げました。
檻の鉄格子が鳴り、部屋の空気がピンと張り詰めました。
「おかしいじゃないか!」――言葉にならない叫びが響いたようでした。
この映像を初めて見たとき、私は思わず笑ってしまいました。
けれど笑いながら、胸の奥が少し痛くなりました。
これは、まるで人間社会の縮図ではないかと思ったのです。

1.比べるという本能
サルが見せる“公平感覚”は、高尚な道徳心というより、もっと根っこの「比べる本能」から生まれているように感じます。
私たちは世界を知覚するとき、必ず「差」を感じ取っています。
明るい・暗い、温かい・冷たい、美味しい・苦い。
すべての感覚は、脳の中で基準と比較されて初めて“感じる”ことができます。
ただし、それは必ずしも他者との比較ではありません。
痛みや空腹のような感覚は、外との比較がなくても感じられます。
けれど「どのくらい痛いか」「どの程度つらいか」という判断は、
過去の経験や体内の記憶との比較によって決まっているのです。
つまり、比較するという働きこそ、感覚と知性をつなぐ共通の仕組みなのです。
右のサルは、隣のブドウを見た瞬間に自分の世界の基準が変わりました。
それまでは満足していたキュウリが、もう「足りない」と感じられる。
そのわずかなズレこそが、社会的感情の始まりだったのかもしれません。

2.不満は社会の痛覚です
では、なぜ進化は「不満」を残したのでしょうか。
それは、群れの協力を守るためだったのだと考えられています。
群れの中で一部の個体だけが得をし続けると、他の仲間はその関係を信じられなくなります。
信頼が失われれば、協力も続かなくなる。
だからこそ「不満」という感情が、社会のバランスを保つための“痛覚”として残ったのです。
不満は身体でいえば「痛み」に似ています。
手を火に近づけたときの熱さが危険を知らせるように、
不満もまた、社会の秩序が崩れかけていることを知らせるサインなのです。
3.不満を正しく向ける知恵
痛みを感じるだけでは混乱が起きます。
大切なのは、その痛みをどこへ向けるかです。
サルたちは怒るだけでなく、「原因」を観察していました。
報酬を与えた人間が悪いのか、隣のサルが得をしているのか。
その違いを見抜くように、鋭い目で周囲を見ています。
もし判断を誤れば、怒りは的外れになり、群れの信頼そのものが崩れてしまう。
だからこそ、原因を見極める知性が必要だったのです。
4.不満が生んだ信頼
不満という感情は、一見すると厄介ですが、その奥には「信頼の残り火」があります。
もし本当に見放していたら、怒りすら湧きません。
痛みを感じるということは、まだつながりを諦めていない証拠です。
サルの怒りも、信頼を壊すためではなく、むしろもう一度バランスを取り戻すための“合図”だったのかもしれません。

5.比べる心が生んだ文化
人間社会を見渡すと、この“比較の本能”が文化の根っこにあることに気づきます。
芸術も、科学も、スポーツも――誰かと自分を比べるところから始まっています。
他人の作品に刺激を受け、「自分もやってみたい」と思う。
それもまた、不平等を感じ取る力の延長線上にあるのです。
痛みがあるからルールが生まれ、ルールがあるから信頼が育つ。
その循環が、社会という不思議な共同体を支えてきました。
6.今日の気づき ― 比べる心と信頼のあいだに
比べる心は痛みを生む。
でも、その痛みを感じられるということは、まだ誰かを信じている証。
不平等を嫌うという小さな反応の中に、群れを守る本能と、つながりを取り戻す力が生きている。

参考:de Waal, F.(2003)ほか 公平感覚に関する実験報告より










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