イワシの学校は海の中
研究レポート77・海の学校:イワシの学校 ― 海の中の“進級システム”

🪶海の中にも「学校」がある?
サバンナでは、ライオンの子どもが母親に見守られながら狩りを学びます。
けれど、「学びの場」は陸上だけではありません。
海の中にも、きらめく“学校”が存在します。
それが――イワシの群れです。
陽の光がゆらめく海の中、
無数の銀色の粒が一斉に方向を変える。
その動きは、まるでひとつの巨大な生命が呼吸しているかのよう。
“海の秩序”という言葉が、ぴたりと当てはまります。
けれど不思議なのは、そこに教師も司令塔もいないことです。
誰かが「右へ」と言うわけでもないのに、
一匹が進路を変えると、数千匹が一瞬で呼応します。
まるで、見えない糸が彼らを結びつけているかのよう。
この現象は、単なる反射ではありません。
イワシたちは日々の生活の中で、
互いの動きに“合わせる力”を磨いていきます。
つまり彼らは、海の中で学んでいるのです。
🧭魚にも「進級制度」がある!
イワシの学校には、まるで人間の学校のように段階があります。
幼魚群、中間群、そして成魚群――。
それぞれの群れは、まるで小学校・中学校・高校のように役割が異なります。
第一段階:幼魚群 ― 「新入生」の季節
生まれたばかりのイワシの子どもたちは、
潮の流れに身をまかせ、ただ漂うように泳ぎます。
筋肉はまだ弱く、方向を決める力も乏しい。
けれど不思議なことに、近くに同じ大きさの仲間を見つけると、
自然と寄り添い、ゆっくりと動きを合わせ始めます。
最初はぎこちなく、ぶつかり合いながらの“集団練習”。
でも、誰かが少し速く動けば、隣の個体が反応し、
その反応がまた次へと伝わっていく。
そんな小さな連鎖の積み重ねが、群れの形を作っていくのです。
この幼魚群こそ、最初の教室です。
ぶつからない距離、流れに乗る姿勢、光の方向を読む感覚――
すべてがここで育ちます。
海は、彼らにとって“命の授業”そのものなのです。

第二段階:中間群 ― 試練と練習のクラス
成長した幼魚たちは、やがてより広い海へと旅立ちます。
そこは、潮が速く、光が変化し、敵の影も潜む場所。
まさに「中間クラス」と呼ぶにふさわしい環境です。
ここで問われるのは、スピードと判断力。
一匹でも動きが遅れれば、群れの安全が崩れます。
だからこそ、彼らは“仲間の動きを読む”能力を必死に磨いていきます。
波に合わせて方向を変える。
光の反射から仲間の位置を察知する。
これらは生まれつきの反射ではなく、
日々の経験の中で培われる“社会的な感覚”です。
群れ全体がひとつの生き物のように動くためには、
それぞれが他者を感じ、反応することが欠かせません。
この“感じ取る力”こそ、彼らの成長の証。
中間群で身につくのは、「個」から「集団」への意識です。
単に生き延びるためではなく、
群れを守り、リズムを共有する。
その学びの深さは、人間社会の協調にも通じています。
実際、イワシの群れ行動は研究者にも注目されています。
イギリスの海洋研究チームは、群れの中心個体が周囲の反応を0.3秒以内に感知し、
視覚だけでなく体側線(たいそくせん)という感覚器官で水の流れの変化を捉えていることを発見しました。
また、群れの動きを数理的に再現する「ボイドモデル(Boids Model)」というシミュレーションもあり、
そのアルゴリズムはドローンの自律飛行やロボット群制御の研究にも応用されています。
つまり、イワシたちの学びは、海の中だけでなく人間のテクノロジーにも“教訓”を与えているのです。
第三段階:成魚群 ― 自然の卒業試験

やがて中間群の中に、
群れの動きを先読みし、波に乗るように動ける個体が現れます。
その時、彼らの前に大きな試練――“卒業試験”――が訪れます。
ある朝、遠くから巨大な成魚群が接近してくる。
海中がざわめき、光が何層にも重なります。
外縁部にいる中間群の一部が、ゆっくりと速度を上げます。
まるで、「今がその時だ」と察したかのように。
中間群と成魚群の境界が重なった瞬間、
泳ぐテンポ、方向、間合い――すべてが試されます。
もしわずかでも動きが遅れれば、群れから外れてしまう。
けれど、リズムを掴んだ個体は、
自然に成魚群の波へと溶け込んでいきます。
そこに合格発表も、卒業証書もありません。
あるのはただ、“生きる力”の証明。
それが、イワシたちの進級システムです。
🧠学びは「本能」か、それとも「文化」か?
ここで立ち止まって考えてみましょう。
イワシの群れ行動は、生まれつきの本能なのでしょうか?
それとも、仲間との生活の中で育つ「文化」のようなものなのでしょうか?
実験によると、人工飼育で群れを知らないまま育ったイワシは、
成魚になっても完全な群泳を示さないといいます。
つまり、群れの中で過ごす“経験”そのものが、
彼らにとっての教育なのです。
この発見は、海洋行動学でも大きな意味を持ちます。
群れ行動は遺伝子だけでなく、社会的経験によって補正される。
これは人間の「社会的学習」や「文化伝達」と非常に似ています。
親から子へ、仲間から仲間へ。
直接教えなくても、行動の中で知識が伝わる――。
それは、文化の最も原始的な形といえるでしょう。
これはまるで、人間の子どもが他者との関わりの中で言葉や表情を覚えるようなもの。
イワシたちは、群れという社会の中で、
「感じ合うこと」「合わせること」を通して成長していくのです。
彼らの世界には先生はいませんが、
学びは確かに存在します。
それは命と命が共鳴することで生まれる“自然の教育”。
私たち人間が「教える」「学ぶ」と呼ぶ行為の原型が、
すでに海の中に息づいているのです。
さらに近年では、この群れ行動をもとに「スウォームインテリジェンス(群知能)」と呼ばれる研究も進められています。
AIが協力し合って問題を解決する仕組み――それはまさにイワシの群れの知恵を現代科学が模倣したものです。
自然の中に、すでに高度な学びのシステムが存在していたことを、私たちは改めて知らされます。
🌅今日の気づき
イワシの学校は、命が命を育てる“進級システム”でした。
学ぶとは、他者と呼吸を合わせること。
海の中で生まれたそのリズムは、
私たちの社会にも静かに流れています。
チームワークや組織運営の研究でも、イワシの群れが引用されることがあります。
誰かが命令するのではなく、全員が微細な変化を感じ取り、
自律的に動くことで全体が安定する――。
それはまさに、人間社会が理想とする「協働」の姿です。
イワシたちは、言葉を持たずにその答えを見せてくれています。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません