アロマンティック・アセクシュアル?
最近、私はハッとした言葉のひとつに「アロマンティック・アセクシュアル」があります。
どうしてハッとしたのかというと、ネットでアロマンティックを検索したのですが、その結果が何だか身に覚えがあって、ドッキリしちゃったからなんですね。
そういえば私は今まで生きてきて、特定の誰かに対して特別な感情が沸き起こるっていう感覚はなかったような気がします。俗に言う、「ドキドキ」や「ムラムラ」といった感情のことですね。
もちろん自分の子供に対しては、不幸があれば悲しいし、いいことがあれば嬉しくて一緒に喜ぶし、でもだからと言って子供に対して「ドキドキ」してるっていうわけでもありません。
ところで、どうして「アロマンティック」なんていう言葉をネットで検索したのかというと、たまたまテレビドラマ「恋せぬふたり」を観たからです。
最初は何のことかよく分からなかったのですが、話が進むにつれて、「アロマンティック・アセクシュアル」の特徴らしきものの理解が進み、興味を惹かれてしまったからでした。
そして、同じ人でも実はいろんな人がいるんだ、という事実を改めて考えさせられたわけです。
と同時に私自身もアロマンティック・アセクシュアルの中に入るのかも?という感覚も覚えました。
人はみなそれぞれ違っているんだ、ということですね。
人とチンパンジーのDNAの99%は同じ!
それでも、白熱教室というテレビ番組で紹介されたロナルド・ハイフェッツ教授によると、「人とチンパンジーのDNAの99%は同じ」ということらしいんですね。
なるほどそう言われれば、人もチンパンジーも、体の機構や機能はほとんど同じだし、生きるための食料などもそれほど大きな差はありませんね。
顔の大きさや形や、手足の長さが違うなんていうのは、同じ人間同士だってみんな違いますしね。
こうしてみると「アロマンティック・アセクシュアル」なんて言って、この人たちは他の人とは違うんだ! なんて言っても、結局のところ重箱の隅の隅をほじって、無理やり違いを暴き出した結果にも思えてきます。
人とチンパンジーとでさえDNAの99%が同じというなら、アロマンティック・アセクシュアルの人とそうじゃない人とのDNAの違いは、どこで四捨五入しても100%同じっていう結果になりそうにさえ思えます。
テレビドラマ「恋せぬふたり」のアロマンティック・アセクシュアルの二人が見せる行為でも、ほとんどが他の人の行為と変わってません。
変わらない行為として、たとえば高橋さんは、自分に殴り掛かったはずのカズくんが石段を転げ落ちそうになった時、反射的にカズくんをかばってました。
その結果、自分が石段を転げ落ちて倒れてしまった高橋さんに、咲子さんはビックリして駆け寄って助けようとしてました。
病院からの帰り、自分の家に帰るのにその石段を登ろうとした高橋さん、「大丈夫、大丈夫」と言って骨折した右腕と痛む腰を引きずりながらも、一人で登ろうとしてました。
そして咲子さんは咲子さんで、怪我をしてしまった高橋さんの職場の店長に連絡をしたり、病院の手配をしたりといろいろ世話をしてました。
咲子さんの言葉では、「高橋さんの役に立てて嬉しい」とのことでした。
でもこんな行為の一つひとつは「人の本能」に根差しているんですよね。
「こう言ってあげたら喜んでくれるかな?」、「こんなことを言ったら怒るかな?」、「こんなことをしたらバカにされる?」、「こんなことするなんて、私はなんていい人なんだろう!」、こんな風に、何気ない行動の一つひとつが本能を満たすかどうかの選択で決まってるんでしょう。
ジェームス・スキナーという人の言葉で、「人は快を求めて苦を避ける」の通り、快を求める本能と苦を避ける本能とで、常に選択の連続というのが人の行動なんでしょう。
言葉の発明!
ところで、人の本能とチンパンジーの本能との違いで面白いものがありました。京都大学の霊長類研究所だったと思うのですが、人のお母さんとチンパンジーのお母さんとの違いについてです。
チンパンジーは進化的に見て、人にいちばん近い存在なんだそうですが、チンパンジーの赤ちゃんがお母さんの周りで遊んでいるとき、チンパンジーのお母さんは赤ちゃんがいたずらや悪さをしても別に怒りません。でも、ただそれだけなんだそうです。
ところが人のお母さんの場合、赤ちゃんにちょっかいを出す、つまりそばで遊んでいる赤ちゃんにいろいろ教え始めるんですね。
「これは○○って言うのよ」、「それ面白いね!」、「これはいくつあるかな?」、「そっちは危ないよ」みたいに一生懸命教えようとするんですね。
これは
「教えたい」
という人の本能的欲求なんですね。
この「教えたい」という本能的欲求こそが
人が言葉を生み出した
最大の原動力
なんだろうと私は感じています。
たまたまそのころ、人には声帯や口などの便利な機能が備わっていたので「声」による言葉が生まれたのでしょうが、もし声帯がなかったとしても、「教えたい」という本能的欲求がありさえすれば、筆談でもモールス信号でも手旗信号でも絵文字でも、何らかの方法で必ず言葉を生み出していたに違いないと思います。
こんな、人を人たらしめる「本能」がいくつあるのか私には分かりませんが、膨大な数のように思えます。
もしかしたらかなりの種類の本能が、チンパンジーのような人以外の動物と人との共通なのかもしれません。
そんな「人の本能」がどんな風に進化してきたのか、どうして進化してきたのか、とても興味があります。
このブログの中で「人の本能」の進化のことを続けられたらいいなと思っています。
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